私のお預かりしているお寺の境内には白木蓮の木がある。毎年、お彼岸の頃には満開になり、参詣の方々は楽しみにしてくれている。
今年は例年より早い開花になってしまい、お中日には散り始めて少し寂しい姿になっていた。「今年は満開の白木蓮が見れなくて残念です」と口々におっしゃる姿に、「また来年を楽しみにしていてくださいね」と私自身は複雑な心境でお答えをする。
というのは、綺麗に咲き終わった花びらたちは、美しさの反面で掃除が非常に大変だからである。掃いても掃いても絶え間なく落ちてくる。朝一番に残らず掃いてもお朝事が終わる頃の地面は花びらでいっぱいである。風が吹こうものなら掃いた傍からどんどん落ちてくる。樹木の多いお寺であるため、木蓮の次は別の花と春先まで延々と続く。
しかし楽しみにしてくれているご門徒さんと同様に、私もまた春の花々を楽しみにしているのである。花は見たいが掃除はしたくないという、なんとも自分勝手な思いに気が付かされる。
思い返してみれば日々この調子だ。自分の都合ばかりで、口には出さないが小さな愚痴ばかりの生活である。先日も地元の花まつり(お釈迦さまの誕生祭)の稚児行列に雨が降らないか心配ばかりしていた。その日は幸いに晴れで子どもたちの溢れんばかりの笑顔が見ることができたが、次の日は雨模様だった。「雨が降ったのが昨日でなくてよかった」と、自分の用事が済んでしまえば、あとは気にも留めないという私の根っこが顔を出す。雨が降らなければ農作物にも影響が出る。しかし農作物の心配すらも私たち人間の都合の話でもある。自分の口にする食料が収穫されないと困るからだ。
秋は落ち葉の季節である。今から紅葉を楽しみにするとともに、どこまでも自分勝手な思いと共に掃除をしようと思う。
『Network9(2024年5月号)より引用』佐々木 誠信(東京4組 正應寺)