楽しいことをやっていこうで始まった会が、大きくなるにつれ執行部が生まれ、組織化され、責任の主体は、旗印を掲げよう等々と、何か自分とかけ離れたものになっていく経験をしたことはないだろうか。私自身そもそも、何のためにするのかといった情熱や、主体性に乏しいこともあるのだと思うが、その場を取り繕うだけの大義名分は言えても、本当の願いとは何かと問われても、人のためにそこまでできる人ではないので、できる範囲でという分相応の簡素なものになる。
お寺でできることは何かを考えて10数年、結局やったことといえば、お寺の場作りと、地域との繋がり強化、真宗の学びは言わずもがな…やっているとは言い難い。世界人口は80億人を突破したのに、日々の付き合いは数十人に満たない矮小な世界である。世界は繋がっているとわかってはいるが、身近な繋がりをもって私の全てともいえる。
あなたの隣人を愛しなさいという戒めがある国でも、戦争の種はあふれている。そこには隣人すら愛せないことがあるという事実、人の悩ましい種が備わっているからである。競争、比較、敬遠、排除、争い。それならば初めから自分の色を出さない方が、フラットに(行き過ぎると無関心ともなり得るが)相手を感じられる気もするが、何も答えないとそれはそれで、意見がない人と見なされることにもなる。何とも面倒で、一見くだらないともいえる評価のある生き方を、命終えるまで続けていくのだ。当然、私もそう誰かを評価しているのである。
そんな全ての言動は、阿弥陀如来からすれば、はなからお見通しなのである。後出しみたいな登場に、時にずるくも感じられるが、間違い、問われ、戻され、歩みを続ける、この不完全な状態を見つめる感覚が、私はたまらなく性に合っているのである。
『Network9(2023年12月号)より引用』渡邉 尚康(東京3組 忠綱寺)