パート2に引き続きパート3です。
去る2024年1月26~28日、真宗会館にて東京教区報恩講が勤修されました。
逮夜法要(27日)および日中法要(28日)でお話しいただいた法話のダイジェストを掲載いたします。
法話は、大谷大学名誉教授・小川一乘氏を御講師として、「『いのちの事実に目覚めよ』―親鸞聖人にとっての死―」をテーマに、お話しいただきました。 『Network9』2024年4月号より引用
照らす者と照らされる者
親鸞聖人は、出家をして比叡山で学ばれました。そこで、出家をして修行を積んで覚りを開いて仏と成るという自力作善の仏道に、親鸞聖人は絶望して山を下りました。その比叡山で天台宗を開かれた最澄は、比叡山で学ぶ若者たちに対して、『山家学生式』という指南書をお書きになっています。その言葉の中に「一隅を照らす者となれ」というものがあります。修行を積んで覚りを開き、世間の人々に智慧の光を当て、仏の教えに出会うようにする。世界を照らすことができなくても、一隅でもいいから照らす者となれ、と若者を励ましたのです。それが出家仏教の基本なのです。
その天台宗の中で、僧都という位にまでなった源信僧都を、親鸞聖人は七高僧の中に取り入れています。なぜかと言いますと、源信僧都は最澄と違ったことを仰ったからです。それが『往生要集』という有名な書物です。なぜ源信僧都を、親鸞聖人は七高僧の中に取り入れたのか、『正信偈』を読むとはっきりします。
我また、かの摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。
(『真宗聖典』第1版 207頁)
と、源信僧都の『往生要集』のお言葉をそのまま引用されています。このお言葉に親鸞聖人は注目されたのです。それを「高僧和讃」の中では、
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(『真宗聖典』第1版 497頁)
と詠まれています。照らす者となれと励ましたのが最澄です。ところが源信僧都は、いつも照らされているというのです。我が身は照らされて生きている者、そういう源信僧都のいただきに親鸞聖人は納得したのだと思います。
わかりやすい例えで説明してみましょう。真っ暗な部屋に入って照明のスイッチを入れると、部屋が明るくなります。スイッチを入れる者となれ。これが最澄の仏道なのです。源信僧都のいただきは、煌々と明るい部屋にいながら、目をつぶって「暗い、暗い」と無明の世界を作り出しているのが、この私であると言うのです。
もうすでに明るい世界にいるのです。それが「いのち」の事実です。しかし私たちは煩悩にまなこさえられて、暗いと言って生きているのです。そう仰る源信僧都のお言葉を、親鸞聖人は大切にされました。そのお言葉を通して、源信僧都を七高僧の一人に加えておられるのではなかろうかと思います。親鸞聖人も、阿弥陀如来の本願に照らされて、生かされている身である、ということを信じて生きる身となりました。同じように、私たちも親鸞聖人と同じ方向を向いて、照らされて生きる者となる。それが、源信僧都の「大悲無倦常照我」というお言葉です。今この瞬間も、「いのち」の事実に目覚めよという智慧の光、大悲によって照らされているのです。
如来のはたらきとしての回向
「本願力回向」として、本願のはたらきによって差し向けられているものに、「往相回向」と「還相回向」という二回向があると、親鸞聖人は説かれています。ある人は「念仏者は、死んだ後に浄土へ往生して、再びこの世に還ってきて、人々を照らし教化する、それが還相回向である」と、そのように還相回向を「未来のこと」として受け取ろうとします。しかし親鸞聖人は、ご自身が再びこの世に還ってきて、人々を教化するなどと、そのようなことは一言も仰っていません。
では、親鸞聖人にとって「還相回向」とは何でしょうか。それは「大悲無倦常照我」という、今まさに智慧の大悲によって、照らされているということが「還相回向」なのです。その大悲に照らされて、私たちも智慧の世界へと帰ることができる。それが「往相回向」なのです。これが本願力回向(本願のはたらきとしての二回向)であると親鸞聖人はいただいていると、私は受け取っています。
ですから未来のことではなく、ただ今のこの瞬間、私たちは還相回向の光の中に身を置いているのです。その光明無量、壽命無量の本願に出遇って、私自身が「いのち」の事実の世界へと目を開かせてもらっていくのです。自分の力では目を開くことができない私たちに「目を開いて見なさい」と、「あなたは光の世界に身を置きながら、『暗い、暗い』と言って無明の世界を造り出している。その事実に目覚めなさい」と言って、私たちにはたらきかけてくださっている。それが還相回向であり、大悲なのです。目覚めていない者がいる限り、光明無量は壽命無量となってはたらき続けてくださっています。私はそれを、還相回向といただいております。 そのことに感動し、照らされているただ今の瞬間の「いのち」を、感動をもって生きる者となる。そして親鸞聖人は『歎異抄』で、感動をもって生きる者となった私が、
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。
(『真宗聖典』第1版 630頁)
と仰っています。必ず「かの土」へ行かなければいけないのです。ただ今の私を私たらしめていた、数限りないほどのご縁が尽き果てたら、どんなに死にたくないと頑張っても、力なくして終わるときは、「かの土」へ参るのです。親鸞聖人は、その「かの土」ということをどのようにいただいていたのでしょうか。
※ダイジェストになりますので、本編をご覧になりたい方はこちらを参照ください。
【2024年東京教区報恩講27日逮夜】
https://youtu.be/xwXayQCmX7E?list=PLnN1j5pDvf1A77wUHOTqiId414WhS4Ruy&t=8946
【2024年東京教区報恩講28日日中】
https://youtu.be/PvjjBsx48rE?list=PLnN1j5pDvf1A77wUHOTqiId414WhS4Ruy&t=10088
パート4(最終)へ続く