親鸞聖人は法然上人から
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」
と教えをいただきます。
そしてそのことが一生涯を通して、自身の聞思のいしずえとなっていかれたのです。
阿弥陀如来は誰にでも分け隔てなく救いの手を差し伸べる仏様です。
「南無阿弥陀仏」を称えることにより、苦しみ、悲しみ、悩むわたしたちを明らかにし、人として生まれ、生きていく意味を、そして人々とともに今生きているということを知らされるのではないでしょうか。
親鸞聖人は法然上人から
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」
と教えをいただきます。
そしてそのことが一生涯を通して、自身の聞思のいしずえとなっていかれたのです。
阿弥陀如来は誰にでも分け隔てなく救いの手を差し伸べる仏様です。
「南無阿弥陀仏」を称えることにより、苦しみ、悲しみ、悩むわたしたちを明らかにし、人として生まれ、生きていく意味を、そして人々とともに今生きているということを知らされるのではないでしょうか。
本尊 | 阿弥陀如来 |
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正依経典 | 仏説無量寿経(大経) 仏説観無量寿経(観経) 仏説阿弥陀経(小経) |
宗祖 | 親鸞聖人 |
宗派名 | 真宗大谷派 |
本山 | 真宗本廟(東本願寺) 京都市下京区烏丸通七条上る |
御影堂
阿弥陀堂
浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、一般に「東本願寺」と呼ばれています。
御影堂(ごえいどう)には宗祖・親鸞聖人の御真影(ごしんねい)を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影(お姿をそのまま写して作られた木像)を安置する廟堂(びょうどう)が建てられました。これが東本願寺の始まりです。
境内建物は江戸時代に4度の火災に遭い焼失しましたが、現在の建物は、全国のご門徒のご懇念(こんねん)により、明治時代の再建(さいこん)事業によって完成したものです。2011年の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌(ごえんき)の特別記念事業として大規模な修復がなされ、現在、御影堂・阿弥陀堂・御影堂門などの6棟は国の重要文化財に指定されています。
顕浄土真実教行証文類(教行信証)
宗祖親鸞聖人は、師である法然上人との出遇いをとおして、阿弥陀仏に帰依して「南無阿弥陀仏」と称えることが、すべての人に開かれた平等な救いの道であるといただかれました。
聖人は、生涯にわたる聞思のなかで『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を撰述し、その教えを「浄土真宗」と顕らかにされました。浄土がまこと(真)のむね(宗)である、浄土こそがほんとうの依りどころであるということです。
浄土は、日ごろのわたしたちの欲望に左右されることなく、どんな状況でも変わらず、失われることのない依りどころです。また「南無阿弥陀仏」のお念仏は、いつでも、どこでも、だれでもできる、普遍の仏道です。
苦しみ、悲しみ、悩むわたしたちは、浄土を願いお念仏を申すことで、人として生まれ生きていく意味、すべての人々とともに今生きているということを知らされるのではないでしょうか。
9歳で出家得度し、比叡山にて修行。修行に努めるも、さとりを得られない自身に苦悩する。
29歳 京都六角堂にて、観音菩薩より夢告を受け、比叡山を下りて法然上人のもとへ。法然上人の念仏のおしえに帰依する。
35歳 専修念仏禁止の院宣により、師法然上人は土佐・親鸞聖人は越後へ流罪。越後での生活中に法然上人はお亡くなりになり、師との再会は果たせなかった。その後、越後・関東の地で、法然上人より受け継いだ念仏のおしえを広める。
60歳を過ぎてから京に戻り、主著『教行信証』、『和讃』等、念仏のおしえを伝えるために、数多くの著作を執筆。その間も、関東の門弟の動揺・息子善鸞の義絶など、心揺さぶられる出来事に直面する。
1262年11月28日 90歳で入滅。
親鸞聖人のご生涯は、苦悩が尽きることがありませんでした。そのような生涯を生き抜かれたのは、法然上人との出遇いを通して、阿弥陀如来に出遇われたからです。親鸞聖人は、阿弥陀如来に出遇えたことに感動された方であり、その感動をみんなに伝えたいと情熱を持って生き抜かれた方です。聖人が出遇われた、私を生かすいのちに触れてみましょう。