西田眞因先生が言われた言葉が印象に残っている。それは「〈真宗〉は第一次産業の宗教である」というものだった。先生らしい独特の表現だ。第一次産業とは米を作るなど、生産業を指す言葉だ。そのように常に何かを生み出していく、具体的には言葉を生み出し続けてきたのが〈真宗〉であると。しかし、それが今は第二次・第三次産業になってしまっている。すでに生まれた言葉を加工するだけだったり、誰かが言った言葉を、そのまま提供するだけのものになってしまっているのではないか。そういう現状を、先生は大変心配されていた。言い換えれば、今の真宗の現場には教学が足りていないし、その教学とは、ただの知識ではなく、常に言葉を生み出すようなものでなければならない。そういう指摘であったと思う。
思えば教学という言葉ほど、私たちにとって身近で曖昧なものはないのかもしれない。かつて私自身も、親鸞教学や曽我教学など、すでに出来上がった思想体系を、知識的に理解していくことが教学だと思っていた。しかし、教学的な知識というものが、かえって私たちの言葉を縛るということもある。真宗の立場ではこう、あの先生からはこう習ったなど、すでに出来上がっている空気感に則ることが、教学的に正しいことだと錯覚し、そういう中で、思ってもいないことを言ってしまったり、なかなか自分の言葉が生まれてこない。言うなれば「踏み外さないための教学」になってしまうのである。
しかし本来は、自分の中に教学がはっきりしているからこそ、私たちはもっと自由闊達に信仰を表現し、状況に応じ自信をもって、言葉を選んでいけるのだ。そのように、自分の足で踏み出していけるものが本当の教学なのではないか。その意味で教学とは、すでに出来上がっている何かではなく、私たちが物事を考えていく視点・立場であり、言葉を生み出す大地のようなものではないかと思う。あらゆる生活の経験が、自身の教学という大地の栄養となり、そこにただの受け売りではない、一人一人の〈真宗〉が生み出されていく。
『Network9(2023年1月号)より引用』花園一実(教学館主幹 東京1組 円照寺)