私は真宗門徒として生きている中で、何の為に、誰の為にこの仕事をして、真宗の僧侶として生きているのかを考えます。それはお寺のため、門徒さんのため、そして何より私の周りにいる俗世間を生きる真宗の教えを知らない皆のためだと思っています。
私は親鸞聖人の「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」という言葉が大好きです。この仕事をしていると解釈の難しい、人に伝えるのはもっと難しい言葉や教えに出逢います。しかし、この言葉は教えを知らなくても「なんとなくでも言っていることはわかるなぁ」と思ってもらえます。
そして、「明日でいいや」「また来年だね」と言って生きている私たちの周りで、翌年にはもう会うことが叶わない人や昨日まで元気だったのに、と驚かれる人がたくさんいる事も事実です。この仕事を始めるまで、人はそれとなく80歳90歳まで生きるものだと思っていました。それが50歳で亡くなる方もいるのだなと思う今です。
ただ、それでもまだどこか他人事で、「30歳だから人生まだまだこれから」と思ったりもしています。まさに死ぬことを「知らない」のです。他人の死しか知らない。武田定光先生のお話の中でいただいた大切な言葉を思い起こします。
「死ぬことを知らないのは、生きていないということ」と。よく生と死の文字を繋げて一文字にして「いのち」と読むように表裏一体ではなく一つということで、死んだこともないのだから死ぬということがわからないのは仕方ないかもしれません。しかし、だからと言って「生きている!」と実感をしたこともない。自死を選ぶ若者も増えるこの時代に生きるということを知るには、死ぬということを知らなければいけません。
周りの大切な人のために、この私だから出来ること、伝えられる事があると思ってこれからもこの仕事をしていきたいです。
『Network9(2023年12月号)より引用』 石川 聖(埼玉組 白蓮寺)