この言葉は、講師の武田定光先生が講義中に話されたものです。武田先生はこの言葉の後に「要するに何のために教団があるのか、何のために我々はそういうことやっているのかということが、明確に伝わっていないということがある」と仰っていました。
この伝わっていないというのは、知識的な面もあると思いますが、何より真宗の教えが生きるうえでの拠り所となるような伝わり方をしていない、ということだと感じました。これは非常に難しい事です。生きるうえでの拠り所になるには、その人が教えに深い頷きや「そうだったのか!」と、これこそ真実の教えだと感嘆し、教えに感謝する必要があると思います。
そのうえ、その感嘆や感謝が一過性のものではなく持続しなければいけません。私自身、初めて真宗に触れたときは、「正しい行ないが当然のように出来る善人でなくてはならない」という観念が翻されたことを深く感謝していました。その気持ちは今も忘れていませんが、その時に比べて感謝の気持ちが薄れているように感じます。その原因を考えると、悩んでいたときは有り難かったけれど、今は悩んでいないので大丈夫です。でも助けてもらったことに感謝はしています、といった気持ちがあることに気づきました。喉元過ぎれば熱さを忘れるわけです。
そんな中で、どうやって感嘆や感謝の気持ちを持続させるかと考えると、聞法していくよりほかはないという結論に至りました。何度も聞法して、その度に「そうだったのか!」という新しい感嘆や、「そうだった」と過去の感嘆した出来事を思い起こし、教えに対する新しい感謝の気持ちや、過去の感謝を思い出し持続させていく。そうすることで、忘れっぽい私でも感嘆や感謝の気持ちを忘れず、その持続がいつか私の拠り所になっていくのだと思います。
しかし、聞法することで自分の凡夫性や罪悪性をこれでもかと教えられて辟易し、疎ましく思っている私もいます。そんな凡愚である私をも救うための教えであるのに、それにも喜べない。業の深さを感じずにはいられません。そんな自分の心と、その心の中にいる阿弥陀様で対話しながら、聞法していきたいと思います。
『Network9(2024年5月号)より引用』須賀 優(東京5組 道教寺)