テレビや新聞では「親殺し」「子殺し」「モラル危機」にともなう「崩壊」のニュースがあふれ、娑婆世間に生きる私たちを切なく重苦しくしている。マスコミは事件のたびに現場付近の住民にマイクを向けている。
その答えの多くは「普通の人」「まじめな人」「感じのいい人」「勤務成績も優秀な人」である。
それを聞くと、あたりまえのことながら「人は相手の内面を正しく知ることはできない」という事実を突きつけられる。その内面に少しでも近づくために「言葉」を使うけれども、コミュニケーションも間の取り方もとても難しくなっている。
世間が求める「普通」は、実は、その人らしさでも個性でも自然さでもなく、世間がその時々によって作りだしたものである。そもそも「あまねく通ずる一般性」というのがその意味であるならとても難しいことではないか。 一番自然で自分らしくいられる状態は皆人によって異なる。自分の「普通」は世間の「普通」とは同じではない。そして世間や社会も重層化し幅がある。
世間的に「普通」でいようとするために、人は周りを気にして、自分を変え、抑え、時には見栄をはりながら四苦八苦するのだ。その窮屈さと重苦しさの反動が、すぐに相手を抹殺消去するほどに増幅してしまうこと、そしてそれを止められなかった無力感、空しさ、後悔、挫折。それほどに人間(私)は弱く頼りない。
正しくお釈迦さまの言われた具体的な「苦」の姿に違いない。宗祖親鸞は「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と自覚したのだろう。強く正しくなろうとする事に疲れ破れた時、弱さからやりなおすことを許しあうことが本当の「関係」ではないか。世間的に「甘い」かもしれないが、そう感じる。
五島 満(ごしま みつる 東京都世田谷区 浄行寺住職)