先日、組の研修会にて長年に亘って教誨師として活動してこられた僧侶の先輩からお話をいただきました。教誨師について少し説明致しますと、教誨師とは、日本国憲法に定める信教の自由の観点から、全国に点在している矯正施設において教誨活動を行う方であります。また教誨活動とは収容者・受刑者の徳性の育成や精神的救済を目的として行われる活動であります。
そのような活動を続けられてきた先輩から人と向き合い、話すうえで大切にしていることや、どのような縁があってこの活動を始めるに至ったのかなど、たくさんのことを聞かせていただきました。 そんな話のなか「本願に立つ」この言葉が私のなかで忘れがたく、印象に残りました。先輩の思う教誨師としての使命を話されたなかで出てきた言葉です。人と相対するとき、本願に立つのか、社会に立つのか、そのことが私の問いとなりました。社会に立って対話をするならば、その価値観のなかで正論を放ち相手を説き伏せることもできるでしょう。また反対に説き伏せられることもあるでしょう。しかし先輩は教誨師としての使命をこのように話されました。「『浄土』を真実の帰依所とすることを闡明にしながら、被収容者とともに『南無阿弥陀仏』、『浄土あり』ということを聞かせていただくことに尽きる」と。
「本願に立つ」とは自らが他者とともに教えられていく存在として生きていくことであると改めて気づかされました。私たちは社会と関わって生きているけれど、何もそこだけで生きているわけではないのだと。私が生まれた場所はどこなのかと今一度考えさせられる言葉でした。
またこれから私が私の人生を歩むなかで自分の立っている場所がわからなくなるときがあると思いますが、その度にこの言葉を思い出すことでしょう。
『Network9(2024年7月号)より引用』内藤 友樹(東京1組 光桂寺)







