通夜説教とはその名の通り、亡き人を縁として夜通し教えをいただく機会を表現したものです。お通夜の原型はお釈迦さまの入滅後、悲しんだ弟子たちがご遺体を見守りながら7日間にわたって、生涯をかけて説かれたお釈迦さまの教えを、夜通しお互いに語り合い、聞き合ったとされる故事からきている説があります。通夜は、故人の冥福をことではなく、集まった親しい人々が亡き人を縁として、教えに出遇っていただく大切な時間です。
この度の「報恩講の夕べ」において、4人の講師の方々にご法話をいただきました。
南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう
神奈川)相模原市 金相寺 成田 宣明

私たちは意味を求めざるをえないような生き方をして苦しんでいます。私自身も会社員を辞めてお寺の仕事に関わり始めた頃に、社会経済活動から置いていかれるような感覚を覚えて自らの存在意味に縛られて苦しんでいました。この自分自身に意味を求める心は、自分自身を傷つけるだけでなく、無意識に自分の都合の良し悪しによって他者をも傷つける相対分別(そうたいふんべつ)の眼(まなこ)でもあります。
2016年に相模原市で起こった「やまゆり園殺傷事件」は、自分とは全く違う恐ろしい思想の人物が罪を犯したのだと、つい思ってしまいますが本当にそうでしょうか。あの事件を起こした被告の背景にあった優生思想。彼の眼で見た時、価値のないと思える存在を排除することは良いことだと思い、犯行に及んだと供述しています。しかし彼が持つ優生思想と、私たちが自分の都合の良し悪しで他を見ていく眼と何が違うのでしょうか。 慶讃法要のテーマに「人と生まれたことの意味」とありますが、そのような私は本当に人と呼べるのでしょうか。私たちは仏の教えを依り所として、ありのままの自分を教えていただくことを通してでなければ本当に人となって歩むということは出来ません。
東京教区慶讃法要お待ち受け大会で池田勇諦(いけだゆうたい)先生が、「たちすくむ その時々に さす光」と、仏法聴聞の歩みとは緊張感の歩みだと教えてくださいました。自分自身の思いに縛られ、いつでも立ちすくむのが私たちです。その立ちすくむ時々に、仏法により無明煩悩の我が身を知らされていく歩みこそが、仏法聴聞の歩みであると教えてくださいました。しかしその歩みを有難いと思えないのが私たちの本音ではないでしょうか。
池田先生の『真宗の実践』に、「親鸞聖人の教えに触れてこれまでの価値観とは異なる価値観があったことにとても驚き、生きることに緊張感が与えられていくことはとても嬉しい(要約)」とご門徒さんの言葉がありました。この嬉しいという歩みをされている方と、教えを有難いと思えない私との違いは何でしょうか。私たちは自分の持つ分別の眼で苦しめられると仏法に教えられながらも、その教えを我が思いに取り込み、自分の価値観にして仏法を聞いていこうとしています。仏法を聞いていながら常に我が思いの中にいるのです。
この相対分別の眼は根深く、常に自分の思いに縛られ逃げだしたいと思うことも度々あります。しかしそんな私だからこそ、教えを伝えてくれる先生方、共に聴聞してくれる御同朋御同行がいてくれます。念仏の僧伽(さんが)において初めて私自身が「緊張感の歩み」を歩むことができるのだと思います。この慶讃テーマは、「ともに念仏の僧伽の中で人と生まれた意味を問いながら人となっていけ」と、私たちに願い呼びかけているのではないでしょうか。
大悲の浄土
長野)上田市 向源寺 池田 向一

大悲とは「無縁の大悲」と言われ、一切衆生(いっさいしゅじょう)(生きとし生けるもの)に対して向けられる憐みの心です。関係があるかないか、理由があるかないかに関わらず、ただ救いたいということだけを目的化し、どんな人でも、どんな生き方をしていても、そのものに対して憐みの心を向けていく。限定がないから大悲と言います。
仏教に於いて最初からこの大悲が重要視されてきたわけではありません。人々を救う、教化することはお釈迦さまも実践されてきましたが、それが明確に主題化されることはありませんでした。初期の仏教に於いては、悟りを開くことが重要な課題であり、他者の救済に関しては必ずしも明確ではありません。しかし悟りに於いては他者の存在は無視できない課題であり、もっと言えば他者の救済が自身の救済にもなるのではないかという考え方も生まれてきます。そのような課題を担っているのが大乗仏教であると思います。
しかしながら、この大悲は私たち人間が発すことは極めて難しい心です。したがって、この大悲の獲得が仏道修行の目的ということになってしまうと、仏教は私たちにとって実現不可能な教えになってしまうでしょう。それに対して、この大悲は私たちが獲得する目標ではなく、仏が遠い昔に私たちを救うために発された心であり、その用(はたら)きに私たちは目覚めることが出来るという教えがあります。そこに親鸞聖人の浄土観の意義もあると思います。
大悲の誓願に酬報(しゅうほう)するがゆえに、真の報仏土と曰うなり。
(『真宗聖典』300頁)
とあります。親鸞聖人にとって浄土とは大悲の用きに報いた場所であるのでしょう。浄土とは一切衆生を救おうとする大悲の精神を具現化した世界です。大悲は仏の大きな精神ですが、それ自体は私たちが認識することが出来ません。そこに大悲は浄土として展開しなくてはならない理由があります。
また、大悲の誓願とは念仏を通して用きます。親鸞聖人は念仏を、大悲の誓願が私たちに用いていることを証明する行として捉えています。念仏は「いつでも、どこでも、誰にでも」、一切衆生を必ず救いたいという願いが、「今、ここ」に用いていることを私たちに気付かせる唯一の言葉です。念仏は誰にでもできる行だからこそ尊いのです。それは大悲の精神を具現化しているからです。この念仏の声が聞こえてくる所、すなわち大悲が用く場所を私は「浄土」と呼びたいのです。大悲の浄土とは常に私たちに用き続ける仏の願いを受け止める道場とも言えるでしょう。
浄土とは遠い世界ではありません。また死後の世界でもありません。浄土とは私たちをどこまでも包み込んでいく世界です。私たちはどこまでも仏に背こうとするけれども、どこまでも包み込んでいこうとするのが仏のお仕事であります。その用きに私たちは念仏を通して出遇っていくことが出来るのです。
以上