『〈未生怨〉(みしょうおん)の誕生』
「未生怨」は、『涅槃経(ねはんぎょう)』に出てくる言葉ですが、私はそれを、すべての人間に当てはめて、「生まれながらに怨みを抱えている存在」と言い換えています。ですから「未生怨」でない人間は、この世にいません。
恐ろしいのは、人間社会は人間に対して、「素直で、善良になれる」という幻想を与え続けてきたことです。本質は誰しも「未生怨」なのに、その「未生怨」の存在に対して、「お前は、本当は善良で素直な人間に成れるのだ」と抑圧が加えられ続けてきました。
煎じ詰めていけば、その抑圧があらゆる犯罪の根本原因だと思われます。
「未生怨」がどこから生まれてくるかと言えば、「自分の出世が『偶然』である」という堅い思いからです。偶然、事故のように誕生したのが自分であるという認識は、自分の存在に対して、そして世間に対しても無責任になるのは当然です。
現代の科学で追い詰められる自己の誕生の原因は、父と母との性交以外にはないのです。性交とは、偶然の事故的な男女の接合であり、卵子と精子との合一も、またさらに、事故的な偶然以外にありません。
この偶然なる事故的生に対して、「お前の生は、『必然』だったのだ」と叫ぶ悲愛が投げかけられなければ、「未生怨」は決して癒えることはありません。それは人間が投げかけられるものではありません。阿弥陀さん以外にはありません。
いち早く、阿弥陀さんに出遇う以外に「未生怨」を自覚化することはできないのです。
東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』175号 巻頭言(2018年9月号)