『スマホ内世界は二十願の世界』
電車に乗って、周りを見渡してみると、ほとんどのひとがスマホを片手に何やらやっている。ひと昔前までは、新聞や本を読むひとが多かったが、いまでは、それは皆無に近い。スマホでゲームに熱中するひと、メールをするひと、ショッピングのページを見つめるひとと用途はまちまちだが、外見上はほとんど区別がつかない。
確かに電車の中は密閉空間だから、息が詰まる。その息苦しさからスマホの世界へと没入する。それは一種の「出家現象」だ。娑婆の息苦しさを脱して、ひとりの世界へ脱出したいという願望だろう。それもよく分かる。ただ、よく考えてみると、あれは他者に通じるツールのように見えて、自分の内界と深くつながっているのではないか。まさに「スマホ内世界」だ。
スマホを見ながら自転車に乗り、誤って歩行者を事故死させる事件があった。あれも完全に「スマホ内世界」に入り込んでしまい、外界が見えなくなる現象だ。「スマホ内世界」は、快適で温かい世界なのだろう。だから肉体という三次元の世界を超えてしまう。私たちが生きているのは、老病死が存在する三次元の世界なのに。
「スマホ内世界」とは親鸞の信仰世界で言えば、二十願の世界だ。そこは胎宮と譬喩的に語られる。胎宮とは、阿弥陀さんの胎内だろう。そこは温かく快適で安全な場所だ。そこに入ってしまえば恍惚に浸れる。この胎宮がなぜ危ないのかと言えば、それは阿弥陀さんと対面できないからだ。阿弥陀さんの胎内から生みだされ、初めて阿弥陀さんと対面し「親子の名のり」が出来る。それが南無阿弥陀仏だ。 スマホが便利なうちはよい。便利を超えて依存したら、「スマホ内世界」に飲み込まれる。私たちは、いま、そういう危険な状況を、人類史上はじめて体験しているのではなかろうか。
東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』176号 巻頭言(2019年4月号)