この度、東京教区主催の「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年」という 慶讃法要が執り行われた。この法要の核心のモチベーションを取り出せば、それは「報恩講」であるに違いない。もっと言えば、〈真・宗〉で執り行われるすべての法要の核心は「報恩講」以外にはない。葬儀も法事もお盆法要もお彼岸法要も、その核心は「報恩講」である。
つまり、さまざまな行事をご縁とはするが、突き詰めれば、近くは親鸞聖人の恩に報い、阿弥陀如来の恩に報いることだけが法要を行うモチベーションのはずだ。しかし、私は親鸞聖人から、そして阿弥陀如来からいかなる恩をいただいたのか。その恩が感じられなければ、報いることなどはできない。そう問われると、「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』信巻)と告白せざるを得ない。まったく感じないかと言えば嘘になるが、親鸞聖人がいなくても、阿弥陀さんがなくても、別に生きていく上で何ら差し障りがあるわけではない。こういう存在が「報恩講」を行うのだから、やはり「恥ずべし、傷むべし」だ。私が親鸞聖人から、そして阿弥陀さんから、いかなる御恩をいただいたのかと、永遠に、問い返される法要が「報恩講」だ。
振り返れば、私が寺に生まれた、その淵源を辿れば、親鸞聖人が存在したからだ。親鸞聖人が浄土真宗を開かれなければ、本願寺はない。ということは拙寺も存在しなかった。となると、親鸞聖人は、私がこの世に存在するための基点だった。簡単に言えば、「いのちの恩人」だ。こう考えると、私がこの世に誕生したことを御恩と感じられなければ、「報恩講」を行っても、「報恩のこころ」が抜けてしまう。しかし、この世への誕生とは、「死ぬいのちを得ること」だ。生→老→病→死を免れる人間はいない。言わば、この世への誕生とは、「死」を背負わされた「被害者の誕生」である。この「被害者」が心底、「誕生」を御恩として感じ取れるかどうか。これは生者にとって、一大事の問題だ。
「報恩講」の最後(結願法要)には、「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」 と、いわゆる「恩徳讃」が勤まる。しかし、『和讃本』の次のページを開くと、「不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して」と、いわゆる「疑惑和讃」が始まる。この展開は、親鸞聖人ご自身が意図したものではなかろうか。御恩をいかにも感じているような顔をしているが、内心では「如来の諸智を疑惑」しているのではないかと問い返される。この問い返しに曝されることこそが、「報恩講」の〈真の醍醐味〉ではなかろうか。
東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 188号 巻頭言(2025年6月号)