今年の1月末に前住職が亡くなり、人との関わり方について考えることがある。私は人との関わりができているのだろうかという自問でもある。
前住職は私の義祖父だ。30歳を過ぎて入寺し、それまでの親戚付き合いとは違い、深く前住職と関わるようになった。思春期の頃の出来事などを思い出すと、「とんでもない人間だ」という思いから否定的な態度が先に出てしまっていた。例えば前住職に何か聞きたいことができてしまった場合、勇気を出して声を掛けないといけない。身内間で神経を使うというのはなかなかしんどい話だ。本題に入りたいのに脱線が続き、こちらの聞きたいことがうやむやのまま解散したこともあった。そんなこともあり、あまりお近づきにならないようにしようと生活してきたのを考えると前住職との関係性は決して良好とはいえなかった。
では問題は前住職にあるのだろうか。壁を作っているこちらが問題ではないか。相手を拒否することが悲しいことだと思いつつも、それでも否定せずにはいられない。なぜか。自分の価値観で量れないから。ではその価値観は間違いないのか。そんな私が相手をきちんと見えているのか。そうした自問だ。
今号の特集取材で、「壁は外にはなかった、自分の中にあった」という言葉があった。編集作業中にハッとした言葉だ。私の自問に今回の特集から着眼点をいただいたように思う。前住職を通して私が問われているのだろう。亡くなってからしか気づけなかった。前住職には感謝とともに色々と複雑な思いは残るのだが。
仏教に出遇って10年になるが、それまでの私では考えもしなかったことである。仏教に出遇ったら腹が立つと専修学院で言われたことを思い出した。わが身の事実を受けて素直に頷けない。それでも離れられない。
『Network9(2023年7月号)より引用』小田 俊彦(茨城1組 等覺寺)