私の前職は高齢者向けの福祉用具の営業でした。例えば、杖は利用者の生活範囲を広げる助けになります。買い物に出かけるなど、自立した生活を送るために欠かせません。また、利用者自身が自立した生活を送ることで、介助者の負担を減らすことができます。利用者や介助者それぞれに「できること」を増やし、充実した生活を送っていただく。そうした意味でやりがいを感じる仕事でした。
この仕事をする中で、様々な利用者と関わりました。時折、昔の写真が部屋に飾ってあることがあります。お話を聞くと「当時は元気にいろいろやっていたが、今はもうすっかり変わってしまったよ」という話です。できることが無くなっていく。自分もやがてそうなると思うと、どことなく虚しさを感じました。元気なうちに時間を充実させ、忙しく過ごしても虚しさに帰ってきてしまう。この身の虚しさを抱えて終わる。これが人生なのかと諦めていました。
初めて『真宗聖典』を読んだときは、世間に培われた自分の価値観で読もうとしていました。世間の価値とどう違うのか、この教えは何なんだという思いで疑ってかかり、そして、私にわかれば南無阿弥陀仏してやろうという傲慢な思いが無意識にありました。助かりたいと思っていても、このような南無阿弥陀仏する気がない私がいくら聖典を開いても、虚しさが晴れることはありませんでした。
先生方のお話を聞くと「ああ、そうだった。そういうことなんだな」と何度もうなずかされ、共鳴はするものの、やがて自分の火は消え、虚しさを感じる日常にもどってしまうのが感じられました。そうしてまた言葉に触れ、「ああそうだったな」と気づかされる。その繰り返しでした。しかし、これでいいのだろうかと思いました。
念仏に生きる先達の方々、そして念仏に生きる朋に触れ、それぞれの火、生き様、背景、声を手掛かりにさせていただきながら、気持ちを新たに聖典に触れる。「南無阿弥陀仏」、本当の意味で、実感として帰依することが自分に火を灯し、虚しさを超えることであると思い、もう一度確かめながら歩んでいきたいと思っています。
『Network9(2023年7月号)より引用』柏女 隆之(千葉組 因宗寺)