真宗にとって、信心ということは大切な要だと思いますが、私自身、「信心というものはこれだ」と、はっきり言うことができないでいます。
一方で、『歎異抄』の中でも「如来よりたまわりたる信心」とおっしゃっているので、聞法していれば、いつかその時がやって
来るのかもしれないと、心のどこかで願いながら待っている自分もいました。
しかし、「本気で教えを聞きたいですか」という問いを投げられた時に、ハッとさせられました。。それは、以前違う場でしたが「これからも教えを聞いていこうと思いますか?」という問いを投げられた時に、私は「教えを聞いていかないと、自分が何者だか分らなくなるから、聞き続けていきたい」と答えたことを思い出したからです。
今思うと、その言葉は本気ではなく、「仕方なく聞き続けなければならない」という心が隠れていたことに気づかされました。先輩僧侶がおっしゃった「真面目だけでは、救われない」という言葉も、私の教えに対する向き合い方を問うてくれたのかもしれません。『御文』の「後生の一大事」という言葉の深さをもう一度噛みしめて歩んでいきたいと思ったことです。
『Network9(2022年12月号)より引用』小林 彩(茨城1組 雲國寺)