どの園にも必ずいるであろう「虫大好きっ子」。年長児のAくんもそのひとりです。珍しい虫はもちろん、どこにでもいるようなものや、大人なら嫌がりそうなものでも「先生、あそこに〇〇がいた!」とうれしそうに報告してくれます。他の子どもたちもみんなわかっていて、虫を見つけるとまずは「Aくん、○○がいたよ!」と教えてくれます。
大好きな虫を見ているだけでは物足りないAくんは、手で持ってみたり、虫かご代わりにおもちゃの小さな鍋に入れたりします。そんなとき、周りで見ている子に「かわいそうだから逃がしてあげよう。虫にもいのちがあるんだよ!」と言われることがあります。最初は「ぼくが見つけたんだよ」と言い返しますが、そのうち渋々と逃がしてあげることが多いです。Aくんにとって「虫にもいのちがあるんだよ」とは魔法のことばのようです。
そんなやりとりを見ていてふと思いました。自分だったらどうだろうか。「虫にもいのちがあるんだよ」と言われて、腕にとまっている蚊を叩こうとしている手をおろすだろうか。キッチンで見つけたゴキブリに向けている殺虫剤をしまうだろうか。「刺されるとかゆくなるから」「気持ち悪いから」と自分の都合を優先してしまう私には、魔法のことばの効き目はなさそうです。
「虫にもいのちがあるんだよ」と同じ理屈で「私にもいのちがあるんだよ」と言ってしまうと、このいのちは私の所有物のように思えてきます。そうすると「わたしがいのちを生きている」として、それを生かすも殺すも自分次第になってしまうでしょう。まず初めにいのちが存在して、いろいろなご縁で私がいるということ、そして、どんないのちであっても「生きよう生きよう」としている姿に目を向ける。そこから、いのちを奪いながら生きていくことの悲しみやいのちの尊さに気づくのではないでしょうか。
『Network9(2024年2月号)より引用』雲乗 真樹(茂木保育園 園長)