私が出遇った言葉は、「阿弥陀様のご利益は結論を与えないという反問性」と「意味を自分たちが生きる糧にしている」です。
まず「阿弥陀様のご利益は結論は与えないという反問性」ですが、「如来は自分の中に入らず対面するものであると教えるため、外にご本尊を持つ」とお聞きしました。たしかに自分が何かの拍子に確固たる信心を得たと思い込み、そのとき自分の心の中に浮かんだ声を阿弥陀如来が発させたものと思えば、他の宗教で言う神託のようにそれが絶対化され、疑念を抱かなくなってしまいます。
また、「人間は結論を持ちたい、安住したい」ともお聞きし、正に私のことだと思いました。問題は解決せずに抱えていると不安ですし、自分なりに苦悩して考えた解決策は、その後に間違っていたことに気づくのが嫌なので、それ以上考えることを極力しなくなります。これらのことから自分には阿弥陀如来のような答えを出すことはなく、自分が一度出した答えを握りしめて放そうとしない凡愚であることが言えます。今後は自分にもし、はっと気づかされるような、または雷に打たれるような感動があって出てきたものであり、本当にそうだろうかという疑念を大切にしたいと思います。
次に「意味を自分たちが生きる糧にしている」ですが、その言葉のとおり私を含め多くの人は、日頃の行動に自分なりの意味を持っています。意味のある行動を続ける理由は、日々の生活の維持や向上、大きな話では人生の目標を達成するためなどの様々な目的があるためだと思います。しかし、その目的についても、今の自分自身に聞きなおして、本当にそうなのか、という問い直しが日々必要なのだと感じました。前述したとおり、一度こうだと決めてしまうと、なかなか握った答えを放すことができないのが人間です。そして日々の行動がルーチン化してしまうと何も考えず行動してしまいます。人生の目標のような、自分にとってとても意味があるように思えるものこそ、ふとしたときに立ち止まって自分が進んできた足あとを見て自分に問い直すことが大事ではないかと思いました。
『Network9(2023年6月号)より引用』須賀 優(東京5組 道教寺)