ご法事を終え、お斎(おとき;食事)をいただいているわたしのそばに、お礼の挨拶とお酌をしに施主の方がやってきました。「今日は有り難うございました。死んだ親父も喜んでいることでしょう。これで安心しました。」(読経に対して皆さんそう思っているのか。これでいいのかなぁ)「ところで、御住職と比べたら申し訳ないが、若住職は声がいいですね。」
父と比較して褒められたその言葉に、さっきまでの心はどこへやら、私の顔はほくそえんでいたに違いありません。苦労してタバコをやめた甲斐があったな…。
しかし、次の瞬間、私の脳裏には「もし声が出なくなったらどうなる?役立たずの坊主と呼ばれるのか、この場には居られない身になるのか」との思いが経巡ったのです。
ある学習会で一緒に学ぶT君は全盲です。彼は僧侶としてお寺に勤めていたのでしたが、視力が徐々に衰え、ある日まったく見えなくなりました。そして、寺の勤めを辞せざるを得ない事態が、彼に追い討ちを掛けました。彼のそんな辛い経歴が思い起こされて、私自身への問いとなったのかも知れません。
いったい僧侶に何が要求されているのでありましょうか。そして、日本人の宗教意識はいかなるものなのでしょうか。
読経という行為は、仏法の真実に出会うための自身の行でした。生きることの慶びというご利益を賜ったことに対して、その仏徳を讃嘆する意味があるのでしょう。ところが、いつの頃からか読経の意味が取り違えられて、他人(亡者)のためのものになってしまいました。
真実に出遇うということは、我(私)の思いは妄念と妄想であったと痛切に知らされることです。それが如来の「回向」というものでありましょう。しかし、今日回向といわれているものは、人間の願いが聖職者の取次ぎによってかなえられるという、ご利益信仰の一手段の如くに解釈されてしまいました。
人間的欲望成就のご利益を得るには、信仰対象に金品や努力を差し出して交換することになります。その取り次ぎ役が僧侶という位置づけがあるのでしょう。これが今日の大多数の日本人の宗教意識であり、回向の構造ではないでしょうか。であれば、神・仏・霊など、対象は異なろうとも構造は同じであって、このための遂行者としての能力が劣れば、布施者側から捨てられるということも起こり得るわけでありましょう。
回向を期待し、欺かれてもなお回向を期待せずにはおれない人間の、何を本当に求めているのか自覚できないような、心の奥底にある宗教的な意欲を、親鸞聖人は「弥陀回向の法」と示されたのではないでしょうか。
親鸞聖人の御領解は「神仏を実体化し、主観をもって携われば、やがてはそれ自体にとらわれ、従属関係の中で人は永遠に独立しえないものとなってしまう。」ということであり、本来の自己を回復するためのものであったに違いありません。
如来のはたらきこそ我らを真の解放に至らしめようという願いであり、私たちはその法の中に生きるものとなる。それ以外にはありません。
ご法事が如来の智慧に出会う場となることを願い、如来への敬虔意識を確かなものとするためにも、僧俗共に御教えをいただき、仏の大悲心を学んでゆきたいと思います。
大久保 良尚(おおくぼ よしひさ 埼玉県北埼玉郡 浄楽寺住職)