いま国内に、寝たきりで看護を受けている人が、老若合わせて100万人以上います。家族を含めると、相当数の人が病と死との苦闘をしているわけです。先日、名古屋でビハーラ活動をしておられる田代俊孝師の講演がありました。ビハーラとは安息・休養の場をさす言葉で、末期がん患者などに、精神の安らぎを伴う終末期を送らせたいと願い、心に重点を置いた看護をする運動、およびその施設のことです。
欧米では、ホスピスといわれ、10年以上も前からありますが、特に宗教が大きな役割を持っています。その講演で紹介された事例に、鈴木章子さんという主婦の詩がありました。
『医学の進歩した現在 死と直面できる病になかなか出合うことができない いつ死んでも不思議でない私が すっかり忘れてうぬぼれていたら ありがたいことに 癌という身をもって うぬぼれをくだいてくれた どうしようもない私をおもって この病を下さった おかげさまで おかげさまで 自分の愚かさが 少しずつみえてきました。
思い残そうとしても 不思議なことに なにもでてきません 確かな方 大きな方に 大慈悲心に 子供のことも 主人のこともおまかせしておりましたことに 気づかせていただきました 安心 満足』(抄出)
健康なものは、死に直面した苦悩は実感できません。ですから、この詩のように激しい懊悩のうながしによって、いただいた信心の内面には、大きな隔たりを感じてしまうのですが、苦悶の日々が、救済を確かめる日々に転じた方々の実証の声を聞けることはあり難いことです。
数年前、義弟がマーサブドウ球菌と緑膿菌の院内感染で死亡しました。意識が薄れ、苦しみをうったえることもなく40日で終わりました。ちょうどその頃、民生委員の研修で、難病者を看病する2家族の映画が映されました。1人は筋萎縮昌の青年と母親で、首から下が動かない青年を夜中に十数回も寝返らせる状況が映されました。もう1人は、まばたき以外は何も動かせず喋れない全身不随の母を、十年も看病した娘さんの実写でした。この映画を見たときは、さすがに心が凍る思いでした。地獄としかいいようのない現実に置かれた人は、何を支えにできるのかを改めて考えさせられました。
病人には、死の恐怖と死ねない恐怖とがあります。また健常者や形象者に対するねたみや孤独感で激しく心が乱されるでしょう。それに対して、「念仏は地獄に耐える力を下さる」と聞いております。本当の地獄をくぐった人の声が聞こえてきたらと思わずにいられませんが、こういう限界状況の中での支えは、やはり念仏の信心以外にはないでしょう。
人生は稽古場ではなく本番だ、と気づかなかった愚かな自分だが、これから本当の人生が始まるんだということ。すべての衆生が長い流転の中で背負ってきた業苦を、いま自分も受けているんだということ。阿弥陀仏の大慈は、常に私を照護してくださっていること。この肉体の死を最後として生死の苦しみが終わること。仏の大きな願(浄土)が私の最終的な帰着地であること。そこで無数の念仏者が私を待ち望んでいてくれること。それらの確信が私を支える大地になってくれます。
久万寿 俊雄(くます としお 東京都台東区 林光寺住職)