新型コロナウィルスによる感染拡大が続いている。虫や鳥が花粉や種を運ぶように、ウィルスは効率よく世界中に広がっていった。そのスピード感は人間社会のグローバル化を嘲笑うかのようだ。街からは活気が失われ、行き交う人々の表情は暗い。うっかり素面で電車に乗れば、たちまちに周りから白い目で見られているような錯覚に陥る。先日のニュースでは、医療従事者を親に持つ子どもが、保育園においてまるで保菌者のような隔離扱いを受け、傷つき泣いていたという。
このような状況の中で私たちが恐れるべきことは、ウィルスによる隔離だけではない。人間の心までもが隔離されていくということではないだろうか。
親鸞は88歳の時のお手紙で、当時、飢饉や疫病で世に人死にが多く出たことを受け、
生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。
(「末燈鈔」『真宗聖典』603頁)
と述べられた。前の震災の折にも、よく取り上げられた法語である。私は最初、人間の現実的な生き死にの問題を、「道理」であり「驚くな」と喝破する親鸞の姿勢にどこか冷たさを感じていた。しかし、ある時ふと、これは無知な者を喝破する言葉ではなく、「怯えなくていい」と励ましている言葉なのだと気がついた。「驚く」は、サプライズという意味だけではない。日本語ではもとより「驚(おどろ)し」といい、「おそろしい」という意味を含んだ言葉であるからだ。
現在もマスクなどの争奪戦が各地で起こっているが、困窮した状況において最も懸念すべき問題は、恐怖のあまり人々が互いに疑心暗鬼になっていくことだろう。不安は人間を孤立させ、孤立はより大きな不安となって我々を追い詰める。
生死に怯える時 生活は沈み
生死をみつめるとき 生活は輝く
残念ながら念仏によってウィルスを撃退することはできない。しかし、念仏は無明の闇を照らす燈火として、私たちに生死を恐れず見つめることのできる正しい眼、勇気を与えてくれるのではないか。
差別や偏見によって他者を排除していくことは、人間が持つ揺るぎない業である。しかし我々が大切な誰かを失った時にそう気付けるように、身体は遠く離れ会えなくとも、心だけは近くにあり続けることができるのも、また人間という存在なのだ。
私たちは心まで隔離されてはならない。
花園一実(教学館主幹 東京1組 円照寺)