最近「終活」の話を聞く機会を頂きました。自分について考えると人生の終焉を見つめることは思いの外簡単な事ではなく、むしろ避けて通りたい。一方で、生きる意味を見つめ今を大切に歩むことは、機会を待っていては中々出来ることではないでしょう。
「一生すぎやすし」である。思い通りにはいかないまでも出来ることはやっておこうと思います、自分でやらないと人さまに薦めることは出来ないと思ったからです。さて、仏教(真宗)の終活とはどのようなことでしょう。考えなければならない事は沢山あります(介護・保険・年金・相続・葬儀)。何れも計画通りには進まないことばかかりです。仮にそれらの全てが解決したとしても、さてそれで私はどう生きるのか?という問題が残ります。信仰の問題です。
こういうご意見をよく聞きます「どうすれば安心して生きていけるでしょうか?」又は「こう考えていますがそれでよいでしょうか?」。私も同じ悩みを持っています。「長年聴聞してきたが、はたして私の聴聞のしかたは正しかったのだろうか?」などです。しかし私がどう考えるとか・こうすることが正しい、とかは私の関心事ではありますが、信仰の問題とは少し違うような気がします。
確かに私は救済の対象ではありますが信仰の主体ではないからです。はっきりしていることは、私は命が終わるまでこの私の関心事から抜け出せないということです。「凡夫というは…」(『一念多念文意』)。さあ私は何を拠り所にして生きれば良いのでしょう。かけがえのない今を大切に生きるとは?うまく言えませんが、私の信仰は私の関心事の外にあるような気がします。南無阿弥陀仏。
『Network9(2023年1月号)より引用』金庭 順三(東京宗務出張所 用務員)