「 1歳という短い人生だったけど、彼にとっては大切な一生だったのでしょうね。」
数年前、1歳の我が子を亡くされたお母さんが、お通夜の席で述べられた言葉です。まだその事実を受け取る余裕もないお母さんが、その深い悲しみから、精一杯ご自身に言い聞かせるように述べられた言葉でした。
しかし、それは単に自分を納得するためにだけの言葉という以上の深い響きとなって、私の胸に届くものがありました。そのときのお母さんの直接的な思いは別にして、今まで持っていた人生に対する思いを根底から覆すような思い意味をもった言葉であると感じたのです。
「人生とは何か」とか、「なぜ生きるのか」という問いに対して、「こうだ」と一点の曇りもなく言い切れる人はいないでしょう。
どのような答え(人間の思い)も、このお母さんのこのような質の言葉の前には、あまりにも色あせた答えでしかないことを思わされます。どのような物差しをもって人生を計ってみても、その結論に本当に満足することができるとは限らない。悩みという形をとって、自らの結論に「ほんとうか?」と問うてきます。
この世の中に<絶対>はありません。自分の人生に起こること一つひとつが、人間の都合を抜きに、思わぬ出来事です。自分の性格や環境、出合った事柄、喜びも悲しみも、どれをとっても思いを超えた不思議なことばかりです。何一つとして自分の思いで、そのすべてを説明できるものはないのですが、この説明できないというところに人間は苦しみます。
けれども、分からない世界のほうが広く深いのだと知ると、不思議という言葉が大きく転換します。解明しなければならなかった不思議が、自分を教える先生になります。都合の悪いことも、いいことも、自分を教える先生となるのです。
逆に言えば、何をしても、どのような人生を歩もうとも、どのようなことが起こってこようとも、そこから開かれる道があるということです。
また、この言葉はよく考えてみると、応えでもありますし、また問いでもあります。
「どのような人生を送っても、それ自体尊いものである」という応えの声であると同時に、「お前は何をもって人生といっているのか」という問いの声としても聞こえてきます。
私たち人間の思いでは、いつでも問いと応えはどこまでも別々のものです。しかしこの言葉のように<ほんもの>の言葉には、応えと問いがともにあるように思うのです。親鸞は、このような深い問いと応えが共にある言葉を、仏からの声と聞き、不思議な現実を生き切る深い意味を見出した人のように思うのです。ですから決して人生をこうだと無理して決める必要がない。問いと応えとの間を揺れ動きながら、その声を聞きつづけて生きてゆくところに、「真実を生きる」という道が開かれていると思うのです。
私にとって真宗は、このような声となって、私の心を揺り動かし、人生を歩み続けよとかけつづけてくれる「言葉」だと感じるのです。
二階堂 行壽(にかいどう ゆきとし 東京都新宿区 専福寺住職)