『孤独感の罪』
二〇二二年一月二十七日に「埼玉県ふじみ野市」で起きた「散弾銃男立てこもり事件」が抜きがたい棘のようにこころに刺さっている。事件の完全解明はまだだが、私が気になった点は、犯人(六十六歳・男)が母親(九十二歳)に完全依存していた点だ。診察のため病院へ母親を連れて行き、診察の順番を待てずに、自分の母親を最初に診ろと迫って騒いだとか。また、すでに亡くなっている母親に心臓マッサージをしろと、出張介護クリニックの医師に要求し、それが叶わないと分かると医師を猟銃で殺害したとか。断片的な情報だが、これらをつなぎ合わせると、どうしても母親に完全依存していた六十六歳の男の像が浮かび上がってくる。これはあまりに残忍で猟奇的で、特異な事件だが、こういう男が生まれてくる淵源と、自分は地続きだと感じる。つまり、自分が愛する対象を傷つけられたとき、自分はそれを承諾できないという痛みだ。それを突き詰めて考えると、『仏説無量寿経』の「独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)《略》身自当之(しんじとうち)、無有代者(むうだいしゃ)」(独り生じ独り死し独り去り独り来りて《略》身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし)が受け取れないということだ。
この経言は人間に「孤独感」を与えるものではなく、公明正大な「独生独死」という仏法の〈真実〉を教えるものである。この世に「生きている」と言えるのは、〈私〉以外にはいないという厳粛な事実だ。
しかし、人間はそれを寂しさという「孤独感」に変質させてしまう。「独生独死」を「孤独感」として受け取らせるのは「貪欲」(とんよく)という煩悩だ。「貪欲」は「独生独死」を打ち消すために、あらゆるものを身に付けようとする。ヤドカリが硬い貝殻で身を守り、その貝殻にイソギンチャクや藻などをくっつけるのと似ている。この六十六歳の男は、母親をくっつけて身を守ろうとした。殺害は「孤独感」という「貪欲」が、手が付けられないくらいに肥大化した結果ではないか。悲しいことに彼には「貪欲」が透明になっていて、それが「貪欲」として見えていなかった。「貪欲」が「貪欲」として見えれば、「貪欲」の支配から逃れられる。〈真・宗〉が人間に要求するものは、この「気付き」という一点なのではなかろうか。
東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』182号 巻頭言(2022年4月号)