『一人一世界(ひとりいちせかい)の奪回』
まさか二十一世紀になって、武力により他国を侵略するなどということが起ころうとは、思ってもみなかった。国連は、他国間の紛争仲裁システムだと思っていたが、これも組織の成り立ちに問題を抱えていて、機能不全に陥っている。
改めて「過去は未来の鏡」だと教えられる。「未来」を知ろうとするなら、人類の「過去」に学ぶ以外にない。どうも「過去」以上の「未来」という夢は、人類に与えられていないようだ。
そのような状況に、〈真・宗〉が人類に提供できるものは、世界観の奪回ではないか。私たち人類は、「世界は一つ」だと思っている。確かに地球は物理的に一つの球体である。だから領土を奪い合うということも起こる。
しかし、そこを生きる「環境世界」まで一つだと考えることは危険である。「環境世界」という用語は、生物学者・ユクスキュルの言葉だ。彼は、「世界が一つ」という観念を「妄想」と呼び、次のように言う。
この妄想は、世界というものはただ一つしか存在しないもので、その中にあらゆる生物主体が一様にはめこまれているという信仰によって培われている。
ここから、すべての生物に対して、ただ一つの空間と時間しか存在しないはずだという、ごく一般的な確信が生まれてくる。
『生物から見た世界』
彼は、生物を丁寧に観察することにより、人間の眼を、「妄想」と批判した。人間の眼は、人間という特殊な生物が受け取った限りでの見え方であり、決して「客観的な事実」ではないと。他の生物と人類の「環境世界」は重なりあっているだけであり、決して「一つ」ではないと。それを突き詰めれば、地球上に七十六億人がいれば、七十六億の世界があることになる。それを私は〈一人一世界〉(ひとりいちせかい)と言っている。厳密に見れば、いま、ここで、この世を一人称で生きているのは、私以外にない。
私を成り立たせている唯一の「環境世界」こそが「私」だ。この〈一人一世界〉(ひとりいちせかい)が奪回されなければ、人類の抱えている「比べるという煩悩」を相対化することはできない。私たちが生きられるのは、本来、比べることのできない独尊の世界なのである。
東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 183号 巻頭言(2022年10月号)