『「存在倫理」の疼き』
誰が見ても、ロシアによるウクライナ侵略戦争は間違っていると思えるのに、その考えは、いわゆる「西側」という色メガネを掛けた人間たちの感覚なのだと教えられた。それは、
「国連人権理事会での『理事国としての資格』をロシアから剥奪する国連決議に関して」、圧倒的多数で賛成されるはずだと思っていたのに、「決議案に賛成したのは九十三カ国、賛成しなかったのは八十二カ国」
(大澤真幸『この世界の問い方』朝日新書)
と評決が拮抗したことを知ったからである。「賛成しなかった八十二の国」とは、「グローバルサウス(第三世界)」と呼ばれる、アフリカやラテンアメリカ諸国、アジアの新興国のことだ。
その理由を大澤は、「少なくとも、これらの国々から見れば、ロシアの人権侵害を非難する西側諸国も、今ロシアがウクライナに対してやっているのと同じような人権侵害を、自分たちに対して行ってきたように感じられるからである」と述べている。
だからといって、ロシアの侵略戦争がまったく支持されるわけではない。そこで大澤も述べているが、西側を支持すべきだと。西側は自分たちの偽善が偽善であることを自覚できる可能性を秘めているからだと。そしてその自覚が同時に、グローバルサウスの国々が真底納得する「倫理」につながっていなくてはならないと。
「西側」という色メガネを掛けた私の罪も、そこに炙り出された。同時に、人間が「我々は」という言葉を使うとき、どこまでを「我々」と意識できるかが問われた。
阿弥陀さんは、「諸天(しょてん)・人民(にんみん)・蜎飛(けんぴ)・蠕動(ねんどう)の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん」(『真宗聖典』百五十八頁)と言われる。つまり、阿弥陀さんが呼びかける救済対象としての「我々」は、人間をも超え、ボウフラや蛾やミミズなどの生き物も包んでいる。当然、グローバルサウスをも超え包んでいる。そこまでを射程に入れられなければ、あらゆる生き物が納得する「倫理」にはならない。奇しくも亡き吉本隆明が「存在倫理」という言葉を作ってまで表現しようとしたかった「倫理」とは、そういうものではなかろうか。
東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 184号 巻頭言(2023年4月号)