去る2024年1月26~28日、真宗会館にて東京教区報恩講が勤修されました。
逮夜法要(27日)および日中法要(28日)でお話しいただいた法話のダイジェストを掲載いたします。
法話は、大谷大学名誉教授・小川一乘氏を御講師として、「『いのちの事実に目覚めよ』―親鸞聖人にとっての死―」をテーマに、お話しいただきました。 『Network9』2024年4月号より引用
仏の覚りを共有する世界
この度、東京教区の報恩講のご縁をいただきましたことに大変恐縮をしております。私は、実は最初から親鸞聖人の教えと向き合おうとしたのではなく、親鸞聖人が向き合われた仏教とは何かという視点から学びを始めました。そういう意味では、私が親鸞聖人と出遇う基本は、親鸞聖人が釈尊の覚りを、どのように身をもっていただかれたのかということになります。
世界にはいろいろな宗教がありますが、仏教だけは他の宗教と違うのです。仏というのは、覚りを開いた者という意味です。覚りを開いて仏と成った釈尊の教えに出遇い、その「覚り」を私たちも共有して仏に成る教えというのが仏教の基本です。
キリスト教では違います。キリストが説いた教えは、私たちが神になる教えではなく、神のもとで、どんな幸せを得ようかという話です。仏教は、私たち一人ひとりが仏になる教えです。釈尊の教えを共有する、これが仏教の基本的なことです。
そこで今回は、「『いのち』の事実に目覚めよ」というテーマを掲げさせていただきました。私たちは、生まれたら必ず死んでいきます。親鸞聖人は、その「いのち」の事実にどのように目覚めて、自らの死をどのように引き受けていかれたか、という視点でお話ししていきたいと思います。
「いのち」の事実に目覚める
私たちは人生100年の時代を迎えて、自分の死ということについてあまり関心を向けていないように見えます。人の死を悲しんだり、涙を流したりはするけれども、「二人称の死」に留まってしまい、自分という「一人称の死」と向き合うことをしていないのではないでしょうか。これは長寿社会の特徴ではないかと思います。自分の死はまだまだ先のことだと思っているのです。
しかし、ここ数年間の新型コロナによって、そうも言っていられない自分が見えてきました。コロナに感染することを恐れ、感染して死に至ることを恐れ、そして感染した人を恐れています。そこに自ずと差別や、排除や、様々な形の問題が作り出されています。そういう人間の在り方があからさまになってきたのではなかろうかと思います。
私たちは、生まれたら歳をとりますし、ときには病気もします。そして、必ず命が終わっていく、これが当たり前なのです。この「生老病死」ということを、当たり前のこととして受け入れることができないのが、人間の生業(なりわい)ではなかろうかと思います。どうしてなのでしょうか。釈尊も今から2500年前に、生老病死に苦悩する我(自分)とは一体何者かということに向き合われました。ただ今生きているこの瞬間の「いのち」は、どのようにして成り立っているのだろうか。そこに、生老病死に苦悩する私がどのように関わっているのだろうか。そのことを問い続けたのが、釈尊の6年間の苦行だったかと思います。なぜ人間は生老病死に苦悩するのか、そこに存在している苦悩する自己とは、どのようにして成り立っているのか。それが顕(あきら)かになれば、生老病死に苦悩する私の存在も顕かになる。そこに、釈尊の覚りの出発点があったのです。では、ただ今この瞬間にあり得ている、私たちの「いのち」とは何なのでしょうか。
縁起的存在としての私
私は今ここでお話をさせていただいております。それは数限りないほどのご縁の中で、ただ今ここで拙い話をさせていただいているわけです。しかもここで話をしているこの私は、お聞きくださっている皆さんによって成り立っています。ここに誰もいらっしゃらなければ、私は話をしていません。今の私ではない別の私がいることになります。ここでお話をさせていただいているということは、私の力を超えて数限りないご縁の中で、成り立っているのです。そういう関係性によって成り立つ「いのち」を釈尊は顕かにしてくださったのです。
この、関係性の中であり得ているという、その道理を釈尊は「縁起」と仰いました。大学院に入った頃、私がそのことをいただく大きなきっかけになった、あるご門徒のおばあちゃんがいました。そのおばあちゃんが亡くなる前の年、お盆のお参りに行きました。おばあちゃんは仏間の隣の部屋で、ぜいぜいと苦しそうに息をして寝ておられました。仏間で正信偈を拝読させていただく間も、おばあちゃんから聞こえてくる声はただお念仏だけです。そして帰りがけに下駄を履きかけた時、「若さん」と背中からおばあちゃんの声が聞こえました。「もったいのうございます。ありがとうございます」と言うのです。そして次に出てきた、背中に響いた言葉に、びっくりしたのです。「こんな苦しい思いをさせていただけるのも仏様から命をいただいたおかげでございます。もったいのうございます。なまんだぶつ」
苦しむのは嫌です。病気になるのも、歳をとるのも嫌、死ぬのも嫌だと言っているのが私たちです。しかし、そういうことが言えるのは仏様から「いのち」をいただいているから言えるのです。様々なご縁によって生かされている私ということを、そのおばあちゃんは「仏様からいただいた命」と仰いました。「このおばあちゃんは仏様だ。いずれ寺の住職になるであろう私に最後の力を振り絞って説法をしてくださったんだ」と、下駄を履きながら涙がボロボロと出ました。念仏者の生き様に出遇って、親鸞聖人のいただいた仏教とはなんとすごい教えなのだと、身をもって納得させていただきました。それから、ひたすら仏教について真剣に取り組み、今の私がいるのではないのかなと思います。
「仏様からいただいた命」と、おばあちゃんは表現しました。それを理屈的に言うと、私たちは「縁起的存在」であるということです。数限りないご縁によってただ今生かされている、その「いのち」に感動をもって生きる者となる。これが釈尊の教えの大事なところです。ただ今の、この瞬間の自己の「いのち」に感動を持てない者は念仏者とは言えないのです。こうはっきり言っていいと思います。念仏をいただいた者はただ今の瞬間、こんな苦しい思いをさせていただけるのも、「仏様からいただいた命」あればこそと、身をもって「いのち」を引き受けていくのです。
※こちらはダイジェストになります。本編はご覧になりたい方はこちらを参照ください。
【2024年東京教区報恩講27日逮夜】
https://youtu.be/xwXayQCmX7E?list=PLnN1j5pDvf1A77wUHOTqiId414WhS4Ruy&t=8946
【2024年東京教区報恩講28日日中】
https://youtu.be/PvjjBsx48rE?list=PLnN1j5pDvf1A77wUHOTqiId414WhS4Ruy&t=10088
パート2へ続く