お腹の中に子供を授かったとわかった瞬間の想いは、境遇により様々であると思います。多くの方はその状況に喜びの感情を持たれるのではないでしょうか。しかし、その授かった命が母親から産まれ出てくるということは一大事です。無事に生まれてきてくれることを願いながらも、そうならないという現実もあります。この記事では、「水子供養」とは何なのか、また、そのことを真宗大谷派ではどのように受け止めるのかを見ていきたいと思います。
水子供養とは?
まず、この「水子」という言葉にはどのような由来があるのでしょうか。一説としては、堕胎することや、流産になることを「水になる」という言い方をしたことからとか、幼い子を「みずみずしい子」といった、というようなことからきているようです。幼くして亡くなった子の特別な供養は、古くからあったといわれていますが、この時には亡くなった幼子が仏様になるとは考えずに、再生を願う儀式として行われていたということです。現在行われているような水子供養の形というのは、1970年代に全国的に広がっていったといわれます。その理由としては、幼くして亡くなった子を、宗教的な儀式を介さなければ、祟りが起きるという考え方が出てきたことによるといわれています。
真宗大谷派としての受け止め
供養ということは二つに分けて考えられます。一つは追善供養、もう一つは讃嘆供養と言います。追善供養とは、亡き人の冥途の幸福のために種々の善い行いをすることです。讃嘆供養が、浄土真宗の考える供養です。阿弥陀と呼ばれる仏様が、「本当に大事な世界に立ち帰ってほしい」という願いをもって呼びかけてくる、その声に触れ、感動し、「私自身、有り難いことでした」と頭が下がることを言います。浄土真宗では水子供養という形は取りません。どんな命も一つの尊重されるべきものとして法要が行われなければなりません。目の前に起きた死という事実を通して、この私の生を問うてくる阿弥陀仏との出遇いの場として、また、讃嘆供養の場としてお勤めをいたします。