ある研修会で、慶応義塾大学環境情報学部の教授で、言語認知発達や言語心理学などを専門に研究されている今井むつみ氏より、「生きた知識とは何か?」をキーワードにお話をいただいた。
初めに、私たち人間が「言葉」があることによって安心してしまい、はっきりしていない概念を、まるで理解しているかのように錯覚することを指す「認知バイアス」という用語を教わった。私はこの話を聞きながら、釈尊が初転法輪に至るまで、深遠なる悟りの内容を言語化することを躊躇っていたというエピソードや、七高僧の一人である龍樹大士が「言語による概念化」を問題として取り上げていることについて、改めて考えさせられた。
さらに今井氏は、現在世界中を席巻している「ChatGPT」に代表される生成AIについて、「記号接地」という問題を提起してくださった。認知科学者のスティーブン・ハルナッド氏の「AIは記号から記号(言語から言語)へ漂流し、一度も地面に降りることができずに回り続けなければならないメリーゴーラウンドのようだ」との発言の通り、私たちの言語の土台となる経験や感覚という「地面」に接していないAIは、数多くの言語を蓄積してはいるものの、それらが本当に意味するところを知り得ないのだという。
講義を受けているうちに、「ああ、この話は私の聞法姿勢を問うものだな」と思えてきた。それは、仏法を聴聞するうえで、どうしても「解学(知的理解としての学び)」に終始してしまう自分自身の課題が炙り出されたからだ。単に教えの言葉を対象化し、「私」を抜きにして知識を溜め込むことは、地に足の着かないAIの学習方法と何も変わらないではないか。生活の中で、私の姿を言い当ててくださる仏法を聞思していく、いわゆる「行学」という歩みがなければ、「生きた仏教」にはなり得ない。
私たち人間は言葉によって惑う。しかし、そんなことは百も承知で言葉によって説かれ、言葉によって伝えられてきた「不可称不可説不可思議」なる教え。ある研修員の方が仰った「仏教史は教えを聞いた弟子たちの『如是我聞』という歴史。だからこそ、無限に広がっていく」という一言に感銘を受けた。
『Network9(2024年3月号)より引用』田宮 真人(東京8組 究竟寺)