ランニングを始めて1年半。冬の時期に欠かせないアイテムは手袋である。しかし走っている最中に暑くなり外した手袋を無造作にポケットに突っ込む。帰って洗濯のために手袋を取り出すが、どこを探しても片方の手袋が見つからない。「落としたか…」と思い手元に残った片方の手袋を見つめる。なにか悲しい思いが沸き起こってきた。もちろん片方の手袋を落としてしまったという悲しみもあるが、それとは違う悲しみ。それは手元に残った片方の手袋は、機知に富んだ人ならば新たな使い道を考えられるかもしれないが、僕にとって使い道が無くなってしまった。片方の手袋は目の前に存在しているのだが、死んでしまったように感じたのだ。
その時、共命鳥の話を思い出した。 共命鳥は、体が一つに頭が二つの鳥。この共命鳥は浄土の鳥として表現されるが、一説によると、浄土に生まれる前、前世では二つの頭の仲が悪かったことが伝えられている。
片方の頭が「右に」と言えば、もう片方は「左に」と言う。片方が「遊ぶ」と言えば、片方は「寝たい」という。頭が二つなのに体が一つなだけに、自分の思い通りにならず当然喧嘩が起こる。ある時、思い悩んだ片方の頭が、もう片方の頭を殺そうと毒の実を食べさせた。
しかし、頭は二つだが体が一つ。毒の実を食べさせた頭も命を落とすことになった。その命を落とす寸前、毒の実を食べさせた頭は「縁起の道理」に気づき慚愧し、浄土の鳥として生まれたという。「縁起の道理」とは、「此れ有れば彼有り、此れ生ずるが故に彼生ず。此れ無ければ彼無し、此れ滅するが故に彼滅す」ということ。
右と左の手袋は、目には見えないが繋がっていた。互いが手袋という存在を成り立たせていたのだ。私たち人間も目には見えないが繋がっている。手元に残った片方の手袋は、どうすることできず、まだ洗濯籠の中に。
『Network9(2023年3月号)より引用』本田 彰一(東京1組 本明寺 )







