『元号からの問いかけ』
「元号」とは、「古代中国の前漢の武帝の時代に始まった制度で、皇帝の時空統治権を象徴する称号」(ウィキペディア)である。つまり、「天皇が統治支配する時間・空間」のことだ。政府の元号選定論議では、中国由来を排除し、国書である万葉集から「令和」を選んだとも言われている。ここに「日本人固有の尊厳」を確立するのだという動機が見える。日本人は、昔から「日本人固有の尊厳」を確立しようとするとき、諸外国の文化、つまり仏教等の外来思想を排除してきた。それも国家という共同幻想体であれば、そういう力学がはたらくのもやむを得ないことかもしれない。私は、それを政治的文脈でなく、信仰者のアイデンティティの文脈で考えている。
私は元号を使用するとき、「ためらい」を感じる。それは仏教導入時の曽我氏と物部氏の争い、さらに「承元の法難」、さらに芋づる式に明治期の廃仏毀釈、そして太平洋戦争までをも連想してしまうからだ。
煎じ詰めると、戦時下で「天皇と阿弥陀仏の本願は同様であると思ふ」と語った教学者のアイデンティティはどのような形をしていたのか。つまり「日本人としての私」か「信心の行者としての私」か。これは「日本人」にとって、実に根深い問題である。そしてそのふたつは自分の中でいかなる関係にあるかが問われるべきだ。決して、それは二者択一の問題でなく、主客の問題として問われるべきだろう。 「過去は未来の鏡」だから、これは決して過去の問題ではなく、来るべき未来の問題である。「信心の行者」にとって「元号」は問題提起として、つねに眼前に存在しているのではないか。
東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』178号 巻頭言(2020年4月号)